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生きる意味の探求11

生きる意味の探求 特集2

講演録 『強い意志が人生を変える』

ライフカウンセラー  田原 米子 氏
(世界平和文化交流会ホームページ 平成16年4月19日講演録より)

皆様今晩は。皆様のような現役で活躍していらっしゃる方々にお会い出来て、今日は私大変嬉しく存じます。

普段は人権問題などのテーマで公立の小中学校、特に関西方面に行くことが多いのですけれども、今回は図らずもご縁がありまして皆様にお目にかかることが出来ました。

またもう一つ嬉しいことに、夫と共に来ました。これは一年に一回あるかないかのことです。大変おこがましいのですけれども、先に私の連れ合いを紹介させて頂きます。田原昭肥と申します。どうぞよろしくお願い致します。
皆さんよく私のことをご覧になって、「米子さんの旦那さんの顔が見たい。ああいう米子さんが生きている裏には、よっぽどご主人が我慢しているか、何かあるのじゃないかしら」とおっしゃいます。私もそう思います。一つのものの裏には必ず何かがある、人間には両面があると思いますので、ある人に何か一つのイメージがあったら、では裏側にはどういう面があるだろう、といつも考えております。後ほど10分くらい質問の時間を設けたいと思いますので、そういうこともご質問ください。

とにかく私は、建前だけで話をしたくはありません。いつも子供達に触れていますけれども、小さい子に「米子さんの足本当にないの?」「車椅子で来ると思ったら米子さん歩いてきたけど、本当にそれ義足ですか?」とか、「足ないんですか?」なんていわれると、「そうですよ。触ってもいいわよ」だとか、「足見せてください」なんていわれると椅子に座って子供たちに「はい」って義足を外して渡したりします。すると、拍手を貰ったりするんです。足を外して拍手を貰うなんてあり得ないことだと思いますけれども、私の場合は特権ですね。(笑)

私は5月で67歳になります。60代ですからまだこれから20年や30年生きると思っておりますけれども、とにかく丈夫で、最後の一息まで現役で生きていきたいと思っています。

そういう私を子供達が見、触ったり握手をしたりしたことによって「ああ、世の中にはああいうおばさんもいるんだ」と心のどこかにインプットしてくれたらいい、と思います。そしてもしこれから先怪我をしたりした時に、「子供の時会ったおばさんは両足も手も無くて、指も3本しかなかった。でもそのおばさんも元気で生きていたから、僕は生きられるぞ」という気持ちを抱いてくれたら、私が生きた意味はきっとあると思うのです。

昭和30年2月14日、今ではバレンタインデーというそうですね、昔はそんな日はありませんでしたけれども。その日の真夜中、私は新宿駅で電車に飛び込みました。

その時私を助けて下さった方がずいぶんいらっしゃいます。のちのち、10年15年経つに従って、ああ駅の皆様にお会いしたい、関係者の方々にお詫びしたいと思いました。自分が幸せになればなるほど、お詫びしたいとか有り難うと言いたいという気持ちが起こるのは、自然なことなんですね。
しかし子育てが始まり、毎日お弁当を作ったり学校に行かせたり子育てをしたりで、どうにもこうにもそういう方達を探すチャンスがありませんでした。けれどもメディアはすごいですね、マスコミの方が探して下さったのです。そして私に教えて下さったんです。

私は国鉄の新宿駅だと思っていましたが、違いました。小田急でした。二つあるとは全く知りませんでした。1時間以上の間どこをうろうろ歩いたのか、自殺を図ったその当日何処を歩いていたのか、自分の頭の中には全く真っ白な状態で、無いんです。抜けているんです。その後も8日間意識不明で、目が覚めたらそんなに経っていました。その期間のことも空白状態で全く覚えていません。

一連の事を思い出すにつけ、自分が今幸せで、夫がいて子供達もいて、日常生活何も不自由を感じず自分のことは自分でできる。有り難い、助けてくださった方がいるにちがいない、探したいという気持ちの中で、まるでドラマのようなご対面をさせていただきました。このことはのちにお話し致します。

生きているということはすごいことです。素晴らしいことです。生きていなかったらこういう有り難かったこと、いろいろな方々の出会いはなかった。後ろに沢山の助けて下さる方がいるから、私が幸せでいられ、こうやって立てているのだと思います。
お喋りを聞いていると「米子さんは気が強そうだ」と皆さん思われるようですけれども、気が強いだけでは世の中、生きていけません。強いだけでは嫌われるんですね。やっぱり半面に、皆さんに頂いた「お陰様で」という気持ち、有り難うという気持ちを持っていないと、生きていく上でぎくしゃくしてくるなということを、年を重ねるにつれつくづく思わせて頂いております。

そんな事を考えながら、今日は現役で生きていらっしゃる皆様の前で、ありのままの私をぶつけて、頂いたこの時間を一緒に過ごしたいと思っております。

新宿駅に飛び込みを図った時のことを回想してみますと、17年間苦痛の日々でした。毎日がつまらなくて、張り合いが無くて、何をしてもやったという気がなく、充実感がないというか、目的がない人生だったんですね。やりたいことをやればいいといった自己満足の毎日を送っていました。

それが2月14日に怪我をして、色々なことがあって死んだと思ったのが復活したというか蘇ってしまった。そして改めて生き直したのが自殺を図った後、自分の人生をみつけた時です。この3本の指は私の持っている全部で、失ったのは17本です。けれども「3本もある」と考え始めた時から、本当の生き方になりました。

17歳まではつまらないとか面白くないといって、それこそものを蹴飛ばしたり文句をいったりする人生でしたけれども、付録だと思っていた18歳から今の6うん歳迄のこの日々、50年弱のこの時間が、私にとっては分厚い付録になりました。

本当はあの齢で死んでいてもおかしくない状態でした。しかし色々な奇跡的なことが沢山起こり、名医中の名医といわれるような方にお会いするなど信じられないようなことがありまして、私は死に損ないました。

死に損なって、生きたことが自覚として目の前に来たすぐは、「何で助けやがった」という気持ちですね。自分で起こした事件のくせに、そういう気持ちで人に八つ当たりするんですよ。人間ってそういうものなんですね。
何で余計なことをして助けたんだ、私は自分でこうしたかったんだ、このまま生きていて、手足もなくてどうやって生きるんだ。どうやって生きろというんだ。この世に神も仏もあるものか。この世に神や仏があるなら、何で3本にした。少なくても5本残して欲しかった。人の前に出しても恥ずかしくないのに、3本では恥ずかしくて、女の私が手も出せないじゃないか。
自分でしたことだから、足がないのは我慢します。でも少なくとも、手を残して欲しかった。両手があれば車椅子に乗って一生懸命動くことが出来るけれども、これでは這うこともできない、いざることもできない。車椅子がそこにあっても、そちらに身体を移すこともできない。片手ではどうしてもそちらに行けないんですね。

その苦痛たるや大変なもので、失って初めて、どんなに自分が5体満足でいた時何も感じないでいたか、何も発見しないでいたか思い知りました。全て持っていたのに、まるで何も持っていないかのように嘆いて人に当たっていた自分を、とても恥ずかしく思いました。

振り返りますと、私の人生には幾つか区切りがありました。子供の頃から14歳までは何のこともなく母がそばについていてくれ、よしよしと大事にされ、いい子だいい子だ、ただただ可愛い可愛いと過保護に育てられました。母子癒着型の典型です。
母が45歳の時に私が生まれたそうですので、年寄りっ子だったせいかも知れませんけれども、とにかくみんな許してくれて「あんたが一番だ」見たいな育て方をしたんですね。私も自分が中心に世界が回っているように感じて、謝ることなんて恥ずかしくてできないとか、有り難うなんて言わなくていいんだみたいな、そういう気持ちで生きてきたんです。

自覚も何もありませんでしたけれども、母のことを頼りにしてそこにずっと存在してくれるものだと信じていました。しかし私が中学2年14歳の時、母は突然脳溢血で倒れて意識を失い、そのまま他界しました。そして私の、何でも言えば通っていた世の中がひっくり返り、思うようにいかなくなって、面白くねえと言い出して自殺を図るまでの数年間は非行に走ったんです。
そしてツッパリの最たることをやりました。人に八つ当たりするわ人生をむちゃくちゃにするわ、人のことを斜めにみて何でも「裏があるに違いない」と疑う人生を生きてきました。

一方で、何で私は存在しなければいけないのか、何のために私はこうして生きているのか、ずっと考えていました。でも意味が分からない。大学生だった兄が持っていた哲学書を読んでも読んでも答えがない。「素晴らしい」といわれている文学を読んでも、私にはどうもよくわからない。先生に聞いても判らない。友人に言うと馬鹿にされる。周りの人達誰も答えてくれない。そういうなかで段々段々、どうでもいいやという気になってきたんです。
先生や先輩達も取り合ってくれないものですから、尊敬していたのに尊敬もしなくなった。誰も何も考えていないように感じて、だんだんまともに考えるなんてばかばかしい、太く短く生きてやれという心境になっていきました。
物を買ってもすぐいらなくなって、またすぐ別のものが欲しくなる。物なんて何の役にも立たないとか、お金がどんなにあっても、買いたいものがあっても大したことないという気持ちでした。何にも欲しくなくなって、誰も信用出来なくなって、生きている人生がただただかったるい。それが結論です。私の自殺願望の原因は、貧しいとか、家族が私を殴るとか、食べ物がないとか、そういうものではないんです。物は、物質的には満たされていたんです。ただ内面的に、非常に飢え渇いていたんです。

何も目的が見つからないまま、ふわふわふわふわと、今日が面白きゃいいという生き方をしていました。そして高校の時に新宿駅で飛び込み自殺を図りました。全てを終わらせるつもりだったのが助けられた、そこで一つの私が終わったと思います。

その後に私を襲ったのは、中途障害になったことの悔しさと恥ずかしさです。今まで自分のことはすべて自分で出来るのが当たり前だったのに、すぐそこにあるおトイレにも行かれない。着替えもできない、歯も磨けない、髪ひとつ洗えない。一つ一つが全部思うようにいかなくなった時の恥ずかしさは耐え難いもので、生きていること自体が社会悪だという心境でした。私が存在することが皆さんに迷惑をかけるのだ、消えるのが一番いいと、2回目の自殺を考え始めたんです。

私がいなくなれば、皆さんにご迷惑をかけなくなる。まず家族に迷惑をかけなくなる。私がこんなふうでは父親も恥をかくだろう。地味に、とてもこつこつ生きてきた誠実な父に対して、私は大きな負担をかけることになる。そして姉は半年後に結婚を控えているのに、私のために結婚は止めると本人は決めている。私を介護するなんてことになってしまった。

父と兄姉達の考えでは、私のために裏に小さい家を建てて、そこに一生住まわせてのんびりさせようというつもりだったそうです。しかし私は心の中で「ああ私を隔離するんだ、離れじゃなくて座敷牢をつくるんだ、私を人の目から隠すんだ」と思っていました。「私が母屋にいて家の中でいざっているとあまりのみっともなさに恥ずかしくて堪らないから、家族は私を見えなくするんだ」、そういう風に僻んだんですね。「そんないい部屋作ってくれて有り難うお父さん」というまともな気持ちが無くなって、「私なんかどうせ邪魔なのよ」という拗ねた解釈しかしなかった。物の見方がそうなってしまうんですね。

姉も結婚に関して「あんたのためじゃない、私自分でそう決めたんだから。兄弟は助け合っていこう、これから励まし合っていこう」と言ってくれるのに、私は心の中で「嘘つけ」と思っていました。「本当は死ねば良かったのに。あんたが死んでくれたら、私は数年後彼と結婚出来たのに、あんたのために結婚できなくなったわよ。私はなんでこんなに不幸なんだろう、母はいなくなり、こんなどうでもいい妹は長生きして、私ばっかりどうして幸せがこないんだろう」と姉はきっと私のことを恨んでいるに違いない、そういうふうに考えるんですね。兄姉が「頑張ろうね」といっても、「嘘つけ」としか取らないんです。

人間はそうなってくると本当に物の見方も変わり、物の言い方も変わって、「こんな物食えるか」とか、「頭のそば歩かないでよ、がんがんするんだ」とか怒鳴ってわめいていました。自分で自分をどう処置していいかわからないんです。中途障害になってしまって、これから先のことが不安で怖くて、人の助けを借りながら生きることが恥ずかしくて堪らなかった。

でも今全部ひっくるめて冷静に考えると、死にたい理由は家族のためでも姉のためでもなかったと思います。本当は自分のためだったと思います。自分がこうなったことが許せない、生きていることが許せない、人の目に晒されることが堪らないというのが本心だったと思います。でもそのときは他のもののせいにしたんですね。人がきっと私のことをそう見ているに違いない、だから私は死ななきゃならない、そういうふうに考えていました。
私自身、自分が嫌でたまらなくて、毎日悶々としていました。この手を見ては嘆いていました。何で3本なんだろう、なんでなんだろう、嫌だ嫌だ恥ずかしい、気持ち悪い、包帯を巻いて隠しているけれど、でもきっとみんなわかって、会いに来る友だちはみんなこれを見物に来るんではないかしら。そういう気持ちのなかに自分を責めて、苦しんで生きていました。

そんな時学校の先生を通じて、先生の友人だというキリスト教の宣教師さんと田原という青年に会うことになりました。これが私と彼の出会いです。

私は八王子生まれの八王子育ちです。あるときここに若いキリスト教の宣教師さんが、奥さんとお嬢さんを一人連れてやってきて住むようになりました。しかし彼は言葉がまだよく出来ないので、私の学校に来て日本語を教えてくれる人がいないかと相談したところ、私の担任だった国語の先生が引き受けたのです。そしてそのとき間に入っていろいろ世話をしてくれたのが、なんとそれから数年後に結婚することになるとは思ってもみなかった田原青年でした。彼が学校に行って話を進めてくれて、その先生と宣教師さんとはよいお友達になりました。

ある時にその先生が、「学校で事件が起こりました。お見舞いに行かなければならないので日本語の勉強を休ませてください」と私のことを話したんですね。そうしたらその方達が「会いたい」と言われたのですが、私も私の家族も拒絶していました。けれども、何回も言って下さるので父もとうとう断り切れなくなって、結局ある日会うことになりました。

私は会った途端に、とても印象悪かったです。「見に来たな」という感じですね。私のタイプと違うとか、見物に来たに違いない、外に言いふらすに違いない、等々。私はいつも他人の目を警戒していて、看護婦さんが向こうの方でお喋りをしていても、「私のことを話しているんだ」など、事ごとに皆さんがそういうふうに見ているに違いないと決めつけていました。生きていることがとても嫌だったんです。

そんな私にお二人は本を持ってきて下さったり、小鳥の籠を持ってきて吊して下さったり、お花やお菓子を持ってきて下さったり、色々な事をして下さいました。でも、私の反応は依然として「口実を設けて見物にくるに違いない」といったものでした。

しかし、この人達は何も私にお説教をしない。それでいて毎週毎週来て下さる。私の学友達は皆、だんだん来なくなりました。私が友人の足を見て「いいな」と思ってしまうんです。私は運動の選手だったものですから、もう陸上も出来ない、テニスも出来ないなんて、足ばっかり気になるんです。私はもう一生歩くことなんてあり得ない。あの靴履いている、ソックスを履いている足はいいなあと、友達の足が、自分の足で立って歩けることが何よりも羨ましかった。すると、相手もそれを意識するんですね。そのために数回もすると来られなくなってしまうんです。
ですがこの方達たちは、感じなかったのかなんだか分かりませんけれども、とにかく毎週毎週来てくださって、そして本当に穏やかに私の友人になって下さったんです。

私の気持ちが非常に和んだのは、その方たちが私を特別扱いしなかったことです。皆さん、障害を持っているから、自殺未遂だからと、こわごわと接するのです。ガラスみたいに壊れてしまうのではないか、またそのことがきっかけでもう一回やるんじゃないかと、回りにあるもの全部片づけられてしまうような状況でした。
でもこの人達は平気で「切断だそうですけれども、どこからでしたか。膝ですか、よかったですね太ももがあって」とか、余計なお世話だと思いましたね(笑)。そういうことをはっきりといい、へつらう気持ちもない代わりに心配そうなこともしない。普通の会話と同じように話してくれるのが、私には非常に和やかに感じられました。普通の人間として私を見ているな、という気持ちがしたんです。

この人達はそうやってだんだん私の気持ちを緩ませ、穏やかにしてくれました。いらいら、いらいらしていた気持ちが、来て歌を歌ってくれたり話をしてくれたりすると落ち着くんですね。そして、普通の状態でにこにこできるようになっていきました。

あるとき二人が帰ったあと、置いて下さった一冊の本をふと手に取ってみました。こういうことってあるんですね、いろいろな人達との出会いで人間は生きているんだと、しみじみ思います。良い出会いがあったら素晴らしいと、今後の人生を楽しみにしながら、今日もそんな風に思いながらまいりました。

病院にいるとよっぽど暇だと思うんでしょうか、皆さん本を置いていって下さるのですが、案外病院というのは本が読めないんですね。ただただ疲れて眠くなるんです。買って貰ったラジオも聞きたくないほど、毎日ただただ疲れる。
しかし一方で、眠れない。睡眠薬を処方してもらうのですが、飲まないんです。飲めば眠れるんですが、一遍に飲まなければ死ねないと思ったものですから、死ぬために貯めているんです。ですから眠れなくて夜が辛いんです。そして手に目をやると、「何で3本なんだ」とまた涙が出るんです。

そんな状態を繰り返していたある時、暇だし、なんということないからと思って、置いていって下さったその本をぱらぱらめくってみました。そしてその中に「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しくつくられたものです。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなりました」という言葉を見たときに、私は「これだ」と思いました。「古いものは過ぎ去った」という文句が、とても新鮮だったんです。

私は新しいことが好きでした。皆さんご存知でしょうか、あの当時マンボというのが流行って、そのリズムに踊り狂いました。力道山ご存じですか、全盛時代でした。洞爺丸という船が沈んだような事件もありましたね。

そんな昭和30年代、「雪の降る街を」という歌が流行りました。遊び歩いていた不良真っ最中の私の心に、なぜかこの歌がとても沁みるんです。がちゃがちゃするように人には見せるのに、一人になって夜ラジオなどでこの歌が流れてくると、しんみりとしてしまう。昼とは別人のようでした。今でも忘れられない、私のとっても好きな歌です。

そんなときにこの聖書の言葉と出会って、「これだ」と思いました。新しい、又新しいって二回も書いてある。「過去に生きるのはやめよう」と、その時思いました。「古いものは過ぎ去った」、この言葉を通してです。

そしてページをめくりました。皆さん、指3本ありますけれど、2本の指があったら上等です。ページがめくれるんです。一枚取ってこうめくれるんです。一枚めくって、こういうふうに筋を付けて読んだときに、おもわず線を引きました。

自分では指がないこと分かっているんだから、人の見栄えばかり気にして隠そうなんて思っている悲観的な人生よりも、3本もあるんだからと考えよう。3本もあったら、おまけに右利きの右手があるんだから、何が出来るかしら。取りあえず本が読めるのだと思うと、本のページをめくれたことが嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。

「古い物は過ぎ去った、みよ、すべてが新しくなりました」、そうだ、新しく生きてやろうと思ったその時、ベルを押しまして看護婦さんに「鉛筆持ってきてください」とお願いしました。「はい」とすぐ持って来てくださった鉛筆が、ぱっと高校時代のように持てました。何ていうことないんです、字が書けるんです。

字が書けるなんて当たり前だと思っていました。手が疲れるとか漢字が出てこないとか、字が下手だとか理由をつけて、書くことを嫌がっていました。でも、そのとき字が書けることが、ペンを持つ感触がとても嬉しかった。「字が書ける、字が書ける」と繰り返して言いました。
小学校3年生から4年生にかけてお習字に母に無理矢理行かされたのを思い出し、「ああもっとお習字に行っておけば良かった、そうしたらもっといい字が書けたのに」と思ったりもしました。先程もあそこで出して頂いた本に、筆で一冊づつサインしましたけれども。本当にあの時もっと習っておけば良かったと思いながら、筆を持っておりました。

そのとき、3本の指があって、ペンが持てるということは凄いことだと思いました。当たり前だと思っていたけれども当たり前ではない。持ちたくても持てなくて、口に加えている人がいるのにと。今年還暦になった私の友人、この人も自殺未遂の人ですけれど、彼女は両手が無いので義手の間に挟んで手紙を書いてくるんです。それも3ページ4ページ5ページ、書いてきてくれます。それに比べたら私はなんて幸せなんだろうと思います。

当たり前ではない、有り難いという気持ちで自分の身の回りを見たとき、感謝出来ることが一杯あると気づきました。今までこれが当たり前だと思っていたけれど、当たり前に生きている人なんて一人もいない。そして初めて判りました。私は生きるべくして生かしていただいたのだ。神様が「死ぬのはまだ早い、もうちょっとそっちにいなさい、そっちでやることがあるんだから、自分の足元からきっちり生きなさい」と言って生かしてくださったのだと思いました。

自分の足元から、というのは大切なことだと思います。今もう召されましたが、私はマザー・テレサさんを大変尊敬しております。彼女のお話に感動して、日本のお嬢さん達が大勢、カルカッタに行かれたことがあったそうですね。その時、彼女はこう仰って帰されたそうです。「みなさん、来てくれて有り難う。でも、カルカッタにいる人達のために働かなくていいです。あなたの、日本のカルカッタに行ってください。日本のカルカッタにたくさん、あなたたちを必要としている人がいると思います。あなたの仕事も一杯あると思います。そこで沢山お仕事をしてください」。私はその言葉を聞きまして、本当にそうだと思いました。

遠く遠くと考えることも大事なことですけれども、周りの人達に目を向けることはより大切ではないかと思います。押しつけてごめんなさい。でも私の基本的な考えは、平和平和とよくいいますけれども、自分の心の中、家族と夫と、子供と、親と、地域と、回りの人達に平和がなかったら、なぜ平和を叫ぶことが出来るだろうか、資格が自分の中にあるだろうか、ということです。本当に自分の回りから平和にしていくことが、私は一番の近道、遠いみたいだけど近道ではないかなと思っています。

「自分を大事にするようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉が聖書にありますけれども、大好きな言葉です。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」、自分を愛しちゃいけないとは言っていないんですね。自分のことを大事にしなさい、睡眠をちゃんと取りなさい、食べるものもちゃんと食べなさい、ちゃんと動きなさい、自分のことちゃんとケアしなさい。自分を大事にしなければ、よその人を大事にすることは出来ません。自分の弱さが分かったら、人の弱さも受け入れられるようになります。そういうことではないかと思います。

私は今60幾つですけれども、寝たまま管を通されて、チューブを通されてそのまま長生きしたくありません。本当に長生きするのなら元気で生きたいと思っています。実は今日も湿布を貼っておりますけれども、いま股間節がおかしいんです。それでも動けるというのは嬉しいことだと思いながら、一生懸命腹筋運動をやるように頑張っております。

そんな風に「生きることを大事にしよう」と思ったときに、回りに素敵な人達が一杯いるじゃないかと気づきました。そしてすぐそばにいた田原青年のことを「なんて素晴らしい人だろう」と思ったんです。でも彼は五体満足だし、彼には彼の仕事があるし、素敵な人だわと憧れを持ちながらも、私とは関係ない人だ、ご縁がない人だと思っていたら、色々と経緯がありまして、私たちは何と、お互いに思い合っていることが分かったんです。

そして今日まで46年間、一緒に来ました。「随分我慢させられているなあ」と感じたこともありましたが、あちら様も我慢していたんだということが後で分かりました。夫婦というものはそういうものなんでしょうね。有り難い事だと思います。3本しかないと思っていた指が3本もあると思い始めてから、私の人生は開けてきました。

 

※田原米子さんの体験談「生きるってすばらしい」は「地上に輝ける星」という本の中に収録されています。いのちのことば社03-3291-8534またはホームページ で注文できます。




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