フランクル著『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男 /松田美佳訳 春秋社刊)より
P. 25 「しあわせは目標ではなく、結果にすぎない」より
そういうわけで、生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。たしかに人生にはまたよろこびもありますが、そのよろこびを得ようとつとめることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずから湧くものなのです。帰結がでてくるように、おのずと湧くのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってはならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。しあわせとは、タゴールの詩で義務といわれているのを果たした結果なのです。この「義務」については、のちになんらかの仕方でもっと立ち入って明らかにするつもりです。いずれにしましても、しあわせというものは思いがけず手に入るものにすぎず、けっして追い求められないものであるわけですから、しあわせを得ようとすれば、いつも失敗することになるのです。
P. 27 「人生が出す問いに答える」より
ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが、「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているのです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえず出すそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかならなりません。私たちが生きていくことはこたえることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。 |