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生きる意味の探求7

フランクル著『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男 /松田美佳訳 春秋社刊)より
 
P. 22   「人間は楽しみのために生きているのではない」より
 思い浮かべてみることにしましょう。ある男が、死刑の判決を受け、処刑の数時間前に、最後の食事の献立を好きなように考えていいといわれたとします。看守が独房に入ってきて、男の望みをたずね、いろんなおいしい食べ物の提供を申し出ます。けれどもこの男は、どんな申し出もはねつけます。この男にしてみれば、ほんの数時間後に死体になる運命のこの有機体の胃の中に、おいしい食べものをつめこもうとつめこむまいと、まったくどうでもいいことなのです。いまならまだ、まさにこの有機体の大脳の神経細胞に快感が起こることも可能です。けれども、その快感も、二時間たてばすべての神経細胞が永遠に滅んでしまっているだろうという状況を考えると無意味なのです。

 けれども、すべての生は、死に面しています。そして、この男が考えていることが正しいとすると、すべての人の一生も無意味だということになります。もし、私たちが、できるかぎりたくさんの、できるかぎり大きな楽しみを求め、楽しみを得ることだけ追求しほかになにも追及しないのなら、楽しみそれ自体は、生きている意味を与えることができるようなものではありません。ですから、楽しみがないからといって、生きる意味はなくなりはしないのです。・・・・こうしたすべてのこと、人間が楽しみを求めたりお金にとらわれたりすることによってしあわせな生活を得ようとする迷いからこのように目覚めることを、タゴールはある詩の中で見事に表現しています。

  私は眠り夢見る、
  生きることがよろこびだったらと。
  私は目覚め気づく、
  生きることは義務だと。
  私は働く―――すると、ごらん、
  義務はよろこびだった。


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