フランクル著『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男 /松田美佳訳 春秋社刊)より
P. 50 「1回きりの人生の重み」より
人生に重みを与えているのは、ひとりひとりの人生が一回きりだということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。「永遠に」失われたのです。しかし逆に、その瞬間の機会を生かして実現されたことは、またとない仕方で拾われて現実になったのです。
P. 53 「人間の不完全性と意味」より
自分自身に絶望することができるという、まさにその事実から、その人がなにかしら正しいことがわかり、絶望するほどのこともないことがわかるのではないでしょうか。理想に目覚めることすらもないほどくだらない人間だったとすれば、彼はそもそも自分自身を裁判にかけることができたでしょうか。自分自身を裁くことができるということは、その人に裁判官の尊厳と威厳がそなわっている証拠ではないでしょうか。
P. 63 「苦悩できない精神病」より
ふつう精神病と呼ばれている病気の場合には、苦悩しないことが病気であるということは明らかです。ただし、精神病は、けっして精神の病気ではありません。つまり、精神が病気になることは絶対にありえないのです。精神的な側面は真や偽であり、有効や無効であるだけで、病気になることはけっしてありません。病気であったり病気になることがあるのは、心理的な側面だけです。そうした心理的な病例のうち、心理的な要因ではなく、身体的な要因に起因するものがあります。・・・・こうした精神病の場合に、苦悩できないことがちょうど症状になることがあります。
P. 72 「意味を実現する方向の転換」より
すでに確認したように、意味は三つの主要な方向で実現されることができます。人生を意味のあるものにできるのは、第一に、なにかを行うこと、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現することによってです。第二に、なにかを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによっても意味を実現できます。第三に、第一の方向でも、第二の方向でも人生を価値のあるものにする可能性がなくても、まだ生きる意味を見いだすことができます。自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか、その事実にどう対応し、その事実に対してどうふるまうか、その運命自分に課せられた「十字架」としてどう引き受けるか、生きる意味を見いだすことができるのです。 |