Web喫茶シャローム
もくじに戻る
生きる意味の探求2

フランクル著『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男 /松田美佳訳 春秋社刊)より

P.7 「宿命論の浸透」より
 私たちがこんにち生きている実感からすると、生きる意味を信じる余地はほとんどないように思われます。私たちは、典型的な戦後の時代に生きています。すこしジャーナリスティックな言い方になりますが、「心の中が爆撃を受けた」といえば、こんにちの人々の気分、心境は、もっとも的確に特徴づけられるのです。

P .8 「こんにちの悲観主義」より
 こんにち、私たちが手をこまねいていてはならないとするなら、それはまさに、何が進歩するのかということ、どれだけ進歩するのかということが、私たちのひとりひとりにかかっているからなのです。その際、私たちが意識しているのは、そもそも、ひとりひとりの内面の進歩しかないということです。これに対して、一般的な進歩はせいぜいのところ、技術の進歩しかないということです。

P. 10   「理想主義の挫折」より

 こうした懐疑にも動かされないためには、生きる意味があるという信念がびくともしないものでなければならないでしょう。このような懐疑と悲観主義をも引き受けて担うには、私たちは、人間として生きている意味と価値を、絶対的に信じていなければならないでしょう。しかし、そのためには、やはり理想主義や熱情に訴えるしかないのに、現代は、あらゆる熱情が乱用されたあげく、ありとあらゆる理想主義が打ち砕かれた時代なのです。じっさい、ほんとうなら、若い世代にもっとも理想主義と熱情を求めなければならないのに、こんにちの世代、こんにちの青年には、もはやどのような理想像もないのです。

P. 12 「裸の実存」より
 たしかに、過去の年月によって、私たちは冷静になりました。が、その年月を経て、人間性が問題であることもはっきりしたのです。すべては、その人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。なんといっても、そうです!ついこのあいだおこったどんなにおぞましい出来事の中でも、そして、強制収容所の体験の中でも、その人がどんな人間であるかがやはり問題でありつづけたのです。

P. 19 「自殺の問題」より
 ところで、生きている意味について話をするということは、そのときすでに、生きている意味がなんらかのしかたで問題化しているからです。生きている意味がはっきりと問題視されるとき、すでに生きている意味がどこか疑わしいものになってしまいます。けれども、人間として生きている意味を疑うと、絶望にいたるのは簡単です。この絶望は、自殺を決断するという形で、私たちの前に立ちあらわれます。


前へ もくじに戻る 次へ

(C)Nanto-shinkyuin. All rights reserved.