キリスト教を信じる前の私は
不安にかられたり良くない思いにとらわれたりした時に聖書を読みました
そして時々イエス・キリストの生きた姿が心の中にイメージとして現れてきました
そうすると次第に心の中をおおっていた黒い霧が晴れていって
明るい光がさしてくるようなそんな瞬間を何度も体験するようになりました
私の心の中に冷たく固まっていたものが溶けていって
奥のほうから温かいものが湧き出てくるような時が何度もありました
もしかしたらキリストが今も生きていて
私に働きかけてくださっているのかなと思いました
私は神の存在を信じられたら本当に心が楽だろうな
幸せだろうなと思っていました
しかし次々に疑問が湧いてきて
なかなか神の存在を信じる気持ちなれませんでした
なぜいつも信仰のことばかりで悩まなければならないのだろうかと
思ったことも何度かありました
無宗教の人の方がよほど人格的に円満で幸せそうに見えました
しかしそんな私をキリストは温かく見守り導いて下さいました
何度も何度も聖書を読んでいくうちに
イエス・キリストのことを思う時間が増えていきました
いつごろからか私の心をキリストが温かな光で満たしてくれていると
自然に思えるようになりました
『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
(新約聖書 ヨハネの福音書7:37,38)』
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−光−
太陽はすべての生命を育ててくれます。
そしてその光はすべての病を癒してくれます。
その太陽が夜でも、雨の日でも、
いつもそばにいてくれるのです。
光がなければ私たちは生きていくことができません。
光がなければそこは闇になります。
どこまでも暗く、
そして寒いだけの空間が無限に続くだけです。
太陽の光は人が健康的に生きることができるように助けてくれるのです。
そして病や苦しみから私たちを解放しようとしてくれます。
聖書にこのような箇所があります。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:4,5)」
植物は光の20%を反射し、80%は吸収する。
そして吸収した光のエネルギーを、生命の成長のためにたくわえる。
と、何かの本で読んだことがあります。
そう、光はたくわえることができるのです。
太陽の光を浴びていると、確かにそのことが実感できます。
暖かさの持続以外に、細胞全体が健康なエネルギーを充電されたような感じを受けます。
光はぬくもりであり、生きる力です。
光は愛であり、希望であると言いかえることができるかもしれません。
「わたしは世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、
いのちの光を持つのです。(新約聖書ヨハネの福音書8章12節)」
キリストを信じたときに、心の中に光がともると言われます。
その光は、初めは小さなろうそくのような存在かもしれません。
しかしそのろうそくは、隣のろうそくに灯をともすことができます。
そのろうそくもまた、隣のろうそくに灯をともすことができます。
そうすると小さな光が暗い闇の中でたくさん光るようになります。
神は光のような存在ですから、きっとその光はいつまでも灯っていることでしょう。
光線治療をしながら、わたしは時おり祈ります。
もちろん患者さんには気づかれないようにしながら。
なかなか効果が現れない時や、
治療の技術や能力の限界を感じることがある時、
私は祈りながら治療します。
「どうかこの方の病を癒してください。
この方が傷みから一日も早く解放されますように。
そしてこのことが決して不運や災いで終わることなく、
病や痛みが益と変わり、
この方の人生をより豊かにして下さいますように。
そしてこの方の心を平安の光が満たしてくださいますように。」
祈りは決して気休めではなく、
実際に目に見える効果となって現れることがあるということを
実験で証明した科学者がいるとのことです。
しかし祈りは科学的な裏づけがなくてもかまわないと思っています。
人智を超えた力を信じて、私は助けを求めようと思います。
文豪ゲーテのことだったと思いますが、
亡くなる前に「もっと光を」と言って息を引き取ったといわれています。
光を欲求するのは人間の自然な本能だと思います。
私ももっと光が欲しいと思います。
神の光が私の中に輝いてくれますように。
その光が周囲も照らしてくれますように。
そういう人生を送りたいと願っています。
なかなかできないことですが、少しでもそうなれるように祈っています。
愛は光のように人々の心を照らすといいます。
光に背を向けると自分の影しか見えません。
そしてその先にははるかな闇が永遠に続きます。
私は光に向かって生きていきたいと思います。
人間は自分で光を放つことはできませんが、
光は受け取ることができますし、それを反映させることもできます。
光はすべて一方的に与えられるものであり、
その方向に体を向けて、受け取るだけでいいのですから。
光は何も要求せず、常に私たちに温かないのちを与えてくれています。
私たちがたとえ背を向けても、それでも無条件に光は私たちを照らしてくれます。
光があることすら忘れ、自分勝手に生きようとも
いつも光は私たちを見放すことなく生かし続けようとしてくれます。
光を嫌って陰に隠れる時期があっても、
またいつでも戻ってきていいように、
光は常に同じところで私たちを待っていてくれます。
人類の多くは太陽をあがめ、
太陽に対する感謝を表してきました。
その気持ちに偽はありませんでした。
この世を覆う闇は大きなものがあります。
けれどもその上には確かに光は輝いているのです。
人類は道を誤り、せっかくの光を私たちのところに届かなくしてしまいました。
だからこそ心に光を求めたいと思うのです。
心の中の闇を光が照らしてくれるように
祈りたいと思うのです。
心に届く光は神から来るものであり、
「神は愛なり」と聖書は言います。
その光は厚くおおう闇をも越えて、私たちの心に灯りをともし、
そしてその灯りは、闇が深くなればなるほど輝きを増し、
永遠のいのちへと私たちをいざなってくれるでしょう。
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キリストに出会う前
すべてが退屈でした。
ふとした瞬間に気持ちが憂鬱になり
それを忘れるために
ひたすら刺激を追い求めました。
朝から晩までパチンコやマージャンに明け暮れました。
しかしそれが終わった瞬間から、再び心に闇が訪れるのでした。
車を飛ばすことで何も考えずにすむようにしましたが、
普段の生活に戻ったとたん
再びどうしようもなく退屈で、憂鬱な時間が訪れました。
いつも誰かと一緒にいないと狂いそうでした。
飲み屋をはしごする日々が続きました。
自分のストレスと不満を発散させることだけが目的でした。
相手のことを本当に思っているのではありませんでした。
生きていること自体が苦痛で
かといって死ぬことが出来ない
やけくその気持ちが切れてしまいそうでした。
それをごまかすために、ただ強い刺激だけが欲しかったのです。
なぜ生きていかなければならないのでしょう。
その意味も目的もわからない状態で
なぜ生活のためだけにがんばれるのでしょうか。
生きる意味が欲しい。
人生を賭けられるものが欲しい。
それがなければ生きていけない。
心の平安が欲しい。
人を信頼できる自分になりたい。
人を愛せる自分になりたい。
自分を愛することができるようになりたい。
いくら努力しても
結果はいつも逆だった。
今はもう努力しようという気持ちすらなくなってしまった。
こんな自分になるはずではなかったのに・・・・・
早く死にたい・・・・
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